福島地方裁判所平支部 昭和29年(ワ)79号 判決 1956年3月30日
原告 宝光寺
被告 加茂文男 外三名
主文
別紙<省略>第一目録記載の土地は原告の所有であることを確認する。
被告渡辺清作は原告に対し右渡辺が前項の土地につき福島地方法務局平支局昭和二十九年二月二十七日受付第八四六号をもつてなした家督相続による所有権移転の登記、
被告渡辺清作および被告加茂文男は原告に対し、渡辺から加茂に対し、前項の土地につき同法務局平支局昭和二十九年二月二十七日受付第八四七号をもつてなした売買による所有権移転の登記、
被告加茂文男および被告萩原平八、同小野沢富太郎は原告に対し、加茂から萩原、小野沢両名に対し福島県石城郡永戸村大字上永井字迎田六十八番山林壱町壱反四畝十二歩につきなした別紙第二目録の地上権設定の登記、
の各抹消登記手続をしなければならない。
訴訟費用は被告等の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求めその請求原因として、別紙第一目録記載の福島県石城郡永戸村大字上永井字迎田六十八番山林壱町壱反四畝拾弐歩外二筆の山林は原告宝光寺において古来から所有し占有管理を続けて現在に至つているのであるが、公簿上の所有名義は真意で元原告宝光寺の住職であつた小林法谷の名義としておいた。すなわち、内部関係においては原告寺の所有とし、外部関係においては小林法谷の所有としたのである。したがつて、公祖公課の一切は原告宝光寺において上納支払をなし小林法谷個人において納税したことはない。そしてさらに、寺有財産たる耕地も古くから小林法谷の名義のまゝ同様寺において占有管理し上納を負担してきているのである。そして先住職小林法谷は久しい以前に死亡しその子孫は分明ならず、宝光寺及檀信徒の何人とも音信なく本件土地の管理も手入も利用もしたことがなく、かつ公租公課金の負担もしたことがない。さらに、被告加茂は原告宝光寺の檀徒の家に生れ本件山林およびその他の財産が小林法谷名義なるも原告宝光寺の所有なることを認めて、さように主張してきたものである。しかるに、被告加茂は前記小林法谷の子孫を執拗に探しあてゝ新潟県新発田市居住の被告渡辺清作がその相続人なりとし、同人をして、昭和二十九年二月二十七日附福島地方法務局平支局受付第八四六号をもつて本件物件につき家督相続による所有権移転登記をなさしめ、ついで同日附受付第八四七号をもつて右清作から被告加茂に対して右物件の売却による所有権移転登記を経由した。さらに被告加茂は被告萩原平八、同小野沢富太郎に対し原告寺の所有であることを分りながら前記物件の内石城郡永戸村大字上永井字迎田六十八番山林壱町壱反四畝拾弐歩につき別紙第二目録記載の如く昭和二十九年三月一日受付第八九五号の地上権設定登記を経由した。しかし、本訴の各山林は小林法谷の所有にはあらずして原告宝光寺の所有財産であるから被告渡辺清作は小作は小林法谷の相続人であるとしても本件不動産の所有権を取得することができず、したがつて、同被告がなした前記相続登記は無効であつて抹消を免れない。つぎに、被告加茂は前記のように右被告渡辺から所有権移転の登記を経由しても所有権を有せざるものから所有権を承継する謂れなく、しかも、同人は前述のように本件物件は原告の所有なることを認めている者であるから原告以外から所有権を取得したと主張しえないものであつて右両名間には売買行為なく通謀による売買を原因とする所有権移転登記は真実の権利関係に符合しない登記抹消でない。さらに、被告萩原、同小野沢の両名が被告加茂と通謀してなした第二目録記載の地上権設定の登記手続も加茂が所有権を有しない限り設定行為は無効であり、したがつてその設定登記も抹消を免れない。
以上の次第であるから、原告は被告渡辺及同加茂が本訴物件の所有権を争うので原告の所有なることの確認を求めるとともに被告渡辺のなした相続登記、被告渡辺から被告加茂に対しなされた売買による所有移転登記および被告加茂が本訴物件の一筆につき被告萩原同小野沢に対しなした地上権設定登記の各抹消登記手続を求めるため本訴におよぶ。
被告渡辺清作が原告先代住職小林法谷の相続人であることは認めると述べた(昭和三十年五月二十日の口頭弁論において、原告訴訟代理人は右陳述は錯誤に出たものであるから「被告渡辺清作が小林法谷の相続人として登記をなしたことは認めると訂正する、被告渡辺清作が小林法谷の相続人であることは否認する」と陳述した)。
(一) 寺院を法人として、その住職と別個に考える観念は明治初年以来潜在したが、それが、それはいたつて素朴な観念であつて、その観念が普及し明確になつたのはようやく近頃のことである。現今では宗教法人法の制定によつて明確になつたけれども民法施行当時においては、なお、その観念は一般には明確でなかつた。それゆえ立法者は民法施行法第二八条の規定をおき、寺院を法人と見る見解をとりつゝも、社会の一般人がこれを明確にせざる事実にかんがみ、法人に関する民法の規定を寺院に適用せざるものとした。しかし、原告代理人は、こゝで、かならずしも、寺と住職とが、つねに全然、同一視されていたと主張するものではない。寺そのものと、住職個人とを別個に見る思想は、おぼろげながらはやくから、あつたであろうことは想像に難くない。けれども、明治時代、なかんずく、その中葉頃までの人々は、これを明確に峻別しなかつた。ことに明治初年には一定の寺有地に対し官没が行われたため、寺有地は一般に官没せられるおそれありとの風評がたち、官没回避のため寺持ち不動産を住職名義となしたることがすくなくなかつた。これらの諸事由から寺持ち不動産を住職名義とし、住職は寺の代表資格(ただし、その代表資格を表示せずして)において、その不動産の所有名義人たることがすくなくなかつた。
本件においても、本訴三筆の山林は、その他の田地とともに、先住小林法谷の所有名義なりしも、原告宝光寺においてふるくからこれを占有管理し迎田六八番山林については大正元年六月村の青年会との間に植林のため向う五十ケ年の賃貸借契約をなし、また田地についても、法谷名義の分も寺有として他に小作せしめ、或は寺で自作して占有管理しきたり、小作料は法谷名義の分も寺で受取り、法谷名義の山林田地悉く寺で納税しきたり、過般の農地改革にあたりては法谷名義の田畑も寺有地と認めて買収され、寺に農地証券を下附されたのであつて、壇家は勿論附近住民は法谷名義の山林田畑が寺有たることにいさゝかの疑点を狭ます、被告加茂自身も別件(当庁昭和二七年(ワ)第九号)において本件山林を寺有と認めておる。
なお、小林法谷には妻シンがあつたが明治二年十一月十日死亡し、その後の事実上の妻小林法心比丘尼も法谷にさきだち明治二十三年陰暦十二月一日死亡し、孤独の法谷が明治二十六年死亡後は、その跡目を採る親類縁者の寺になかつたのは勿論、そのあとをおとのう人とてなく、無縁の先任として爾来約六十年推移しきたり、その間宝光寺は小林法谷の物件が寺有たることに些の疑を狭むところなく善意、平穏、公然に占有管理しきたつたのである。
かくして、本件三筆の山林につきては村役場の名寄帳には宝光寺持小林法谷とあり、小林法谷は寺の代表者資格においてその名義を出しておるのであつて、不動産の登記簿に本件山林が小林法谷の所有名義であつたことは同人の所有たりしことを示すものでなく、右は宝光寺住職としての名義であると見なければならない。すなわち、右登記簿の小林法谷所有名義は現今の観念より見れば之に代表資格を加うべきであつたのをこれを明示しなかつたに止まりその小林法谷所有名義は宝光寺住職としての所有名義に外ならない。されば本件物件はもとより原告の所有に属する。(昭和三十年六月二十五日の口頭弁論において原告訴訟代理人は「本件物件は内部的には原告所有で外部的には小林法谷の所有であるとの釈明はこれを訂正する」と陳述した)。
(二) 本件山林の不動産登記簿の被告渡辺清作の相続登記に関する記載には「明治二六年四月十日、昭和二二年法律第二二二号附則第二五条第二項本文の規定により渡辺仙太郎相続により取得したるを大正十三年一月二十五日家督相続」とある、しかしながら、小林法谷の除籍簿謄本(甲第一三号証)によれば、同人は死亡当時、単身戸主たりしものである。すなわち、右除籍簿謄本によると、同人には養子ありたるも、法谷死亡前に離縁し、妻シンは平法務局より取寄にかゝる登記申請書附属の千光寺住職山口尚堂署名の過去帳の写(甲第二一号証)によれば明治二年十一月十日死亡しその外に法谷死亡当時同人の戸籍に在つたものがないから、法谷は死亡当時単身戸主であつたのである。しかるに、法谷死亡当時施行の明治十七年太政官布告第二〇号によれば「単身戸主死亡又は除籍の日より満六ケ月以内に跡相続者を届出ざる者は総て絶家とす」とあり「絶家の財産は、五年間親族又は戸長に於て保管し、右年限後は親族の協議に任じ、然らざるものは官没すべきものなりしを以て」法谷死亡当時の法律たる前記布告によれば法谷死亡とともに法谷家は絶家し、その財産は相続の目的たらず、渡辺仙太郎は法谷の財産すなわち本件山林を相続する由なく、したがつて被告渡辺清作は仙太郎よりこれを承継するに由なき筋合である。
被告は財産の官没が行われた事跡がないから相続人曠欠に関する従前の民法千五十一条以下の手続を採らなければならなかつたと論ずるが、仮りに被告所論の如しとせば本件山林は右千五十一条以下の相続人曠欠に関する規定にしたがつて処理さるべきであつて、したがつてまた渡辺被告の相続の目的たりえないものである。
また、昭和二二年法律第二二二号附則第二五条によると、家督相続人の選定を要する場合として新法の適用を見るのは、旧法すなわち従前の民法の適用を受ける時代の相続に関するので、それ以前の相続にまで新法は適用されない。本件小林法谷の相続開始は明治二六年四月十日であつて(甲第二二号証)民法施行(明治三十一年七月十六日)以前である。そして民法施行法第一条によるも民法施行前に開始した小林法谷の相続には民法が適用されない。したがつて本件には前掲附則第二五条適用の余地がない。福島地方法務局平支局が附則第二五条第二項本文を適用して被告渡辺清作を小林法谷の相続人と登記したのは法律の誤解に基くものである。
被告は小林法谷の相続に改正法附則第四条により新法が遡及して適用されると主張するが、新法の遡及適用は親族編についてゞあつて、相続編になると、この附則は再び一般の原則に復して不遡及主義をとり附則第二五条第一項は「応急措置法施行前に開始した相続に関しては、第二項の場合を除いて、なお旧法を適用する」とあつて、附則第四条の新法の遡及主義は相続編に関しては原則として適用がない。ゆいに、法谷の相続に改正法の適用あることを前提とする被告の所論は誤りである。被告の所論は明治、安政、文政、天保に跨がる昔の相続に民主々義の改正法を適用すべしというにあつて非常識の法解釈といわねばならぬ。
なおまた、本件に新法が適用になるとしても、本件は民法附則第四条により旧法および応急措置法によつて生じた効力を妨げないとある場合に該当するとも解しうる。何んとなれば、旧法によつて生じた効力が妨げられないとすれば、なおさら、旧法以前に既に定まつた効力を妨げられないのは勿論であり本件は当時の法令により既に定まつたものであるからである。したがつて附則第四条適用の余地はない。かりに、小林法谷の相続に新法の適用があるものとして、同法により被告渡辺は小林法谷の相続人であるかを考えると、(1) 小林法谷の戸籍謄本(甲第二二号証)に記載の渡辺平八と甲第一七号証記載の渡辺平八と同一人なりや疑わしい。(2) 小林法谷が果して渡辺平八三男渡辺谷男に外ならざるや、一片の私人の証明書に過ぎない甲第一九号証によりしかとこれを断定しえないではなかろうか。(3) 登記附属書類として添付の本人渡辺清作の上申書、「証明書類本件登記申請に添付して書面以外に無之、且つ相続人以外他に共同相続人がない旨」の一片の単なる本人の上申書で、共同相続人のないこと、その他続柄の立証を完備したといゝうるであろうか。(4) 相続、身分の確定は極めて慎重を要するものであるが、今から百十七年前の天保九年以来の相続関係を過去帳の抜書の証明書を大胆に借信することによつて、しかく簡単に断定してよいものであろうか。(5) ことにいわんや登記申請書の附属書類は、加茂文男、阿部千代治の蒐集したものである。両人が信用すべからざる人物なることは後述の通りである。(6) 被告渡辺は小林法谷との間の身分関係を従来知らず、たゞ阿部千代治から先祖にかゝる人ありしとと漠然聞かされたに止まる。当の相続人と称する人が、確たることを知らないような情況において、正確を期すべき身分関係を登記申請書附属の不完全な疏明書類によつて断定することは頗る危険なことである。かゝる不完全なる疏明書類によつて重大な相続関係を決定すべきでない。(7) 福島地方法務局平支局は甲第二二号証「除籍簿謄本」によれば小林法谷には法定または指定の相続人がないから旧法第九八二条により家督相続人の選定を要する場合として、前掲附則第二五条第二項本文により新法を適用したものと思われる。そして平支局が新法により被告渡辺を小林法谷の相続人と認定したのは、甲第二二号証に、法谷は新潟県蒲原那鳥潟村平民亡渡辺平八三男とあり、甲第十七号証に渡辺平八天保九年八月十四日死亡、渡辺仙太郎安政六年十二月一日死亡、平八長男とあり、甲第二四号証によれば、被告渡辺清作は渡辺仙太郎の直系卑属たることを窺わるるにより、被告渡辺を法谷の相続人と断じたものと想像される。かりに甲第二二号証記載の渡辺平八と甲第一七号証記載の渡辺平八と同一人なりとし甲第一七号証記載の渡辺平八は小林法谷の父なりとし、渡辺仙太郎は同証の記載により平八の長男なりとし、法谷死亡当時その直系尊属生存しあらざるものとして、新法第八八九条二号(兄弟姉妹の相続)をこれに適用するときは、小林法谷の死亡による相続は渡辺平八の長男(法谷の兄)渡辺仙太郎唯一人とはたして確定し得るだろうか、渡辺平八には長男仙太郎の外に(甲第一七号証には平八二男平六ありしとあるも享年十一才で夭折し法谷の相続には関係ない)他に相続に関係を有する子供は沢山無かつたであろうか、換言すれば法谷には相続に関係を有する兄弟姉妹は他になかつたであろうか疑はしい。(8) 甲第一七号証記載の渡辺仙太郎が小林法谷の唯一人の相続人なりしと仮定して、甲第二四号証によれば右渡辺仙太郎(初代)は長男渡辺仙太郎(二代)により家督相続がなされている。が初代渡辺仙太郎には甲第二四号証に従えば少くとも二代(長男)渡辺仙太郎と長女トクの二人あつたことだけは明瞭である。けれども、その他に何人直系卑属があつたか不明である。もしこの外にあつたとせば、新法第八八七条第二号により長男仙太郎、長女トクを含むその頭数に従つて相続財産は均分せらるべき筋合である。本件相続登記は二代渡辺仙太郎が初代渡辺仙太郎の唯一の相続人と断定してなされた誤れる登記である。(9) さらに、甲第二五号証によると二代渡辺仙太郎には二男清作(本件の被告)の外長男銀次郎、長女ツタ、二女キクノ等あり、かつ遺妻トメ生存しておつたので、二代渡辺仙太郎の相続に新法第八八七条を適用するときは、渡辺清作(本件被告)一人のみの相続でなく、数名で共同相続をなすべき関係にあつたものである。これを要するに、もし附則第二五条第二項本文により新法を適用すべきものとせば、歴代の相続毎に共同相続人が何人ありしやを明瞭ならしむべき確実な資料を必要とし、その確実な資料にもとずき代を重ねるごとに均分又均分と相続分は細分化されゆくべき筋合である。しかるに、法務局平支局は附則第二五条第二項本文により新法を適用するといゝながら、かえつて新法の認めない家督相続(長子相続)に関する規定、しかも、一足飛びに被告渡辺清作を相続人として相続登記をなした誤を侵しているので、被告渡辺清作は小林法谷の相続人ではない。
(三) 被告渡辺、加茂間の本件山林譲渡行為は、かりに真意に基くとしても、公序良俗に反し無効の法律行為である。何となれば、阿部千代治は被告加茂から依頼をうけ被告渡辺清作に対し「原告等の現住職は不身持にして、このまゝに放任しおくときは、寺有財産をなくされる虞があるをもつて、総代人においてこれを管理したいから、名義を総代人名義に譲られたし」と懇請し、ついで被告加茂は清作に対し「自分は宝光寺の檀頭の子孫である。自分が持つていれば安心である。寺のため預り置き、住職に信用のある人ができたら渡す、訴外石城林業株式会社がこの地所をごまかしているから、自分が取返して御寺に渡す、贈与では登記ができないから売買登記にしてくれ、御寺が従来使用せる部分は御寺に寄附する」等といい渡辺を説得し、御寺に贈与のためと称して登記書類を取得した。被告渡辺は、本件山林が小林法谷所有なりしことも、小林法谷がその祖先であつたことも、元来知らず、もつぱら加茂、阿部等の言を信じ、その物件の所在も、価格も、またその範囲も知らず、加茂、阿部等が原告寺の住職が不身持で寺有財産を失う虞があるから寺にこれを保有するため檀頭の子孫たる加茂が預かり、これを寺に移譲する旨の言を軽信して無償で譲渡したものであつて、これを譲受人加茂側より見れば、新潟県の片田舎にある朴とつな、世慣れぬ渡辺の智慮浅薄に乗じ、自分はいま寺の総代なり、檀頭の子孫なりと称し、これを寺のため、寺に移譲すると称し、無償で譲与を受け、その譲与を受ける先だつて、つとにこれを被告萩原、同小野沢等に六百五十万円で譲渡するが如きは、相手方の智慮浅薄、軽卒に乗じ詐言を弄して過当の貧利の獲得を目的とするものであつて、まさに公序良俗に反する法律行為として無効である。したがつて被告加茂はかりに被告渡辺が本件物件を相続したとしても、無効の法律行為によりこれを取得するに由なく、被告萩原、小野沢は無権利者加茂より地上権の設定登記を受くるも無効である。
なお、被告萩原、小野沢は登記を見ずして取引し、かつその取引は昭和二八年一一月一八日で本件山林が加茂名義に登記された昭和二九年二月二七日以前である。また迎田六八番七一番は訴外態谷一郎に譲渡登記されているが同人は加茂文男の甥にあたる無資産の一青年で、たんに加茂のためにその名を貸したにとどまり、実際上の利害関係はない。また告知参加を求められた山田きぬ、斎藤平一郎は、本訴提起予告登記後の登記上の利害関係に止まる。ゆえに加茂対渡辺間の取引を無効とし、その間になされた登記を無効とするために、不測の損害を受ける立場にあるものではない。なお、萩原、小野沢は、その後加茂被告との間で両者間の問題を解決し、加茂被告が阿部千代治名義で所有する平市字田町四番の十二宅地四十二坪五合八勺、田町五番の七宅地十五坪七勺につき代物弁済契約をなし権利移転の仮登記をしたから渡辺対加茂間の譲渡を無効としても、萩原等は損害を受けることはない。
(四) かりに、本件山林が小林法谷個人の所有であつたとしても、原告は前述のように、法谷死亡(明治二六年四月十日)以来自己の所有としてこれを占有管理し、必要に応じてその樹木を伐採し、迎田六十八番地に関しては大正元年六月村の青年会との間に植林のため向う五十ケ年間の賃貸借契約を締結し、連年各山林の納税をなし、寺の財産として歴代の住職が之を引継ぎきたり、檀家は勿論附近住民は本件山林が寺有たることに聊かの疑点を狭まず、法谷死亡後その遺族と称する者より故障を申出でたることなく、爾来六十有余年寺は善意平穏かつ公然と、所有の意思を以て占有管理しきたつたものであるから、民法第一六二条第二項により原告は明治二十六年四月十一日から十年を過ぎた明治三十六年四月十日を以て本件山林の所有を時効により取得したものである。もしかりに、占有の初め善意無過失に非ざりしとせば同条第一項の二十年の時効により明治四十六年四月十日これを取得し現にその所有権を有するものである。そして原告は右時効取得の登記をまたなさゞるも、さきに述べたように被告渡辺清作は小林法谷の相続人にあらず、その他の被告はいずれも相続権なき無権利者渡辺清作の権利に由来するもので、本件物件に関し何等正当の権利を有する者でないから、原告の時効取得の登記の欠缺を主張する正当の利益を有せざるものである。
かりに、原告主張の右取得時効完成の時期が認められない場合は善意無過失として、大正元年六月二十四日を起算点とし、それから十年を経過した大正十年六月二十三日、もし善意無過失でなかつたとせば、大正元年六月二十四日から起算し二十年を経過した昭和七年六月二十三日取得時効完成したと主張する。けだし、迎田六十八番地については大正元年六月二十三日から原告はこれをその所有として植林のため村の青年団に賃貸して使用収益し、その他の二筆についても、原告は所有の意思をもつて引続きその毛上を伐採して収益し、連年各山林の納税をなし、檀家は勿論附近住民は右山林が寺有であることに聊かの疑念をもはさまず、原告は善意平穏公然に所有の意思をもつて占有してきたからである。
被告等は、被告等が約八百万円の被害を受けたから被告等を保護するを至当とするというけれども、本件係争の三筆の山林には高価な毛上はなく字寺下一二二番でも松が五、六本位であとは薪にする位の雑木林にすぎない。これらの者の被害は、本件山林そのものに関してゞなくて、実は別の附近の山林を加茂に見せられて蒙つた損害である。原告の関知するところではない。しかのみならず、被告萩原、小野沢は売買代金として支出に係る三百六十万円の返還に代えて加茂より阿部千代治名義(実質は加茂所有)の平市田町七番の一宅地六十四坪この価格三百八十四万円の交付を受けてすでに昭和三十年七月一日解決を了したものであるから、萩原、小野沢は本件地上権を失うも損害はなく右地上権登記を保有すべき理由消滅し、地上権消滅によりその登記の抹消を要するものであると陳述した。<立証省略>
被告等各訴訟代理人は原告請求棄却の判決を求め、答弁として、原告主張事実中、原告主張の山林がもと小林法谷所有名義になつていたこと、小林法谷が死亡したこと、被告渡辺清作が小林法谷の相続人として本件物件につき家督相続による所有権取得登記をなし、右清作から被告加茂に対し右物件売却による所有権移転登記のなされたこと、被告萩原、同小野沢に対し本件山林中字迎田六十八番の土地につき地上権設定登記のなされたことは認めるがその余の事実は争うと陳述した。
なお、被告四名各訴訟代理人は、
(一) 本件山林は地券(乙第一号証)の存在によつて明白なとおり、登記簿に登載される以前から法谷個人所有となつていたのである。原告の主張する名寄帳なるものはいわゆる索引に用いるだけであつてその不動産の所有権関係を明確にする根拠とはならない。すなわち所有権関係を明確ならしめる根拠は地券状、土地台帳および不動産登記簿によるのである。このことは名寄帳の使用目的、地券状の発行交付の趣旨土地台帳および登記簿の性格を考慮すれば明らかである。さらに本件山林について地券状交付の時期すなわち明治十四年十二月二十日当時、とくに小林法谷名義に本件山林を仮装せねばならぬ必要がなかつたこと、および仮装名義にしていた事実を明らかにする何等の証拠もない。いなむしろ、法谷は理財家で、蓄財の方法として本訴の山林をその個人所有として取得したことを認めるに充分である。とくに本件以外の寺所有の山林および農地は初めから原告寺名義に登記されているものが存在しているのであつて、他の不動産については仮装名義による必要がなく本件山林についてのみ、とくに法谷名義に仮装し所有せねばならぬ必要性があつたのか、これを納得せしめる根拠も証拠もない。
原告主張のとおり、原告宝光寺は本件不動産の所有名義を真意で同寺の住職である訴外小林法谷名義としておつたので内部関係においては原告宝光寺の所有とし外部的において小林法谷所有であるとすると、右は所謂信託的譲渡の観念で、右観念においては当事者間内部関係においては所有権の移転なしといえども第三者に対する外部関係においては所有権は受信者に移転するものであるから第三者が信託の事実を知悉すると否とを問わず受信者と第三者との間の売買は法律上有効にして之により第三者は有効に所有権を取得するもののと言わなければならない。まして、本件においては被告等は権利取得当時善意であつて原告の主張自体理由がない。
原告は、右の原告宝光寺は本件不動産の所有名義につき真意で同寺の住職である訴外小林法谷名義としておいたもので所有関係については、内部的には原告宝光寺の所有であり、外部的には訴外小林法谷の所有である旨の主張を昭和三十年六月二十五日の口頭弁論において撤回した。しかし、原告の右主張は自白であるから、その取消は許されない。すなわち、被告らは宝光寺の所有なることを否認し、本件山林は当初から内部にも外部的にも訴外小林法谷の所有であると主張する。したがつて、原告主張は内部的には宝光寺の所有であると主張する点においては被告等の主張と相容れないが、外部的には訴外小林法谷の所有なりと主張する部分については、被告等の主張と全く一致するのである。したがつて、原告が本件山林につき外部的には訴外小林法谷が所有権を有する旨の主張は所謂一部自白であつて、その一致した部分については自白となる。いわんや、被告等は、昭和三十年六月二十五日附準備書面において原告の「内部的には原告の所有であるが、外部的には訴外小林法谷の所有である」旨の主張を予備的に援用し、右準備書面は、原告の前示同日附準備書面にさきだつて六月二十五日の口頭弁論において陳述されたのである(同日の口頭弁論調書には原告がまず準備書面を陳述したことになつておるが、事実は、被告がまず準備書面を陳述したのである)。かりに原告の右主張の撤回が許されるとしても、本件山林は元来小林法谷の所有であつて、かつて原告の所有であつたことはない。右山林は明治十四年当時、すでに訴外小林法谷所有名義のものであり、地券状に訴外小林法谷名義に登載せられ引続いて同人名義で保存登記をなして最近に至つたものである。地券状の時代から引続いて小林法谷名義で登記されているという事実は、その根底にある実質上の権利を小林法谷が有していたものと推定されるのである。けだし登記に対応する実質関係が通常有効事実に成立し、かゝるものとして公簿に記載されるのであるから逆に公簿に記載があるときは、通常これに対応する実質関係が有効真実に存在ないし成立したと見るべきだからであり、登記の推測力は判例も認めるところである。だから、かかる登記が実質的権利を伴わぬものであることは、原告において立証すべきものであるが原告の立証によるも、かゝる登記の推測力を覆すほどの証拠はない。
寺院や神社が法人であることは、わが国においてはすでに大化の改新の頃より認められていた。すなわち、寺院を法人とし住職の財産と寺院の財産とを区別する観念は、わが国ではすでに約千年以前からであり、わが国において法人の観念が認められたのは、寺社が最初である。民法施行法が寺院について、法人の規定を適用せずとしたのは、寺院が法人である観念が稀薄だつたからではなく、すでに寺院が法人であることは一般に明らかである、が民法の法人の規定によらしめず、とくに旧慣によらしめるを相当としたからである。原告主張のように社寺と住職との財産の区別がなされなかつたようなことが、あるいは、あつたかも知れないが、本件の場合、原告は本来原告名義の財産を所有しておつて、宝光寺名義の財産もあるし、小林名義の財産もあつたのである。すなわち原告寺においては法人と個人とを区別した結果、寺院財産は寺院財産として登記しておるのである。
原告は当時官没回避のため寺持ち不動産を住職名義にしたというが。登記簿上小林名義になつているのはその代表資格(宝光寺住職)が誤つて脱落しているのであるというにかゝわらず官没回避のため、住職名義にしたというのであれば、それはまさに、いわゆる信託であり内部的には原告所有であるが、外部的には小林法谷所有という法律関係になるのであつて、原告の主張自体矛盾する。原告は本件山林が原告の所有である証拠として、大正元年原告が青年団と本件山林の一筆につき賃貸借契約をし、あるいは本件山林を原告が占有管理し、これにつき納税をしてきた事実を挙げる。しかし、これらはいずれも小林法谷死亡後のことに属し、小林死亡後は、法律上相続人不存在であるから、相続人が管理し納税するに由なく、ために原告において恣に占有管理収益してきただけのことであつて、このことから、明治十四年の当初において原告の所有であつたことを推論することはできない。
(二) 小林法谷は死亡当時単身戸主であり、当時明治十七年太政官布告が布達せられおり、しかも、旧民法施行前に生じた事項については旧民法に特段の規定のないかぎり、旧民法が適用せられなかつたことは原告主張のとおりである。原告は法谷死亡とともに法谷家は絶家となり、その財産は相続できないと主張するけれども、法谷死亡後本件山林については、官没処分が行われた事実はない。しかも判例(東京控訴院判決明治三十六年十月十五日)によれば、絶家は相続財産が国庫に帰属したるときをもつて最終として、初めて確定するのであつて、法谷死亡後かゝる官没処分が行われた事実がない中に、民法施行を迎えたのであるから、当然民法施行法第九二条の規定により相続人曠欠の場合の規定を適用して、旧民法第一〇五一条以下の手続をとらなければならなかつたのである。しかるに、民法施行後、本件山林について旧民法の相続人曠欠の場合の手続をとつた事実はないから、未だ本件山林は官没せられて国庫に帰属してはいないのである。
原告は民法施行法第一条を唯一の根拠とし渡辺清作は相続人でないと主張するが、新民法附則第四条によれば、新法の遡及効を原則としておる。すなわち、新法は、新法および附則に別段の規定がないかぎり、新法施行(昭和二十三年一月一日)前に生じた事項に適用せられるのであつて、附則第四条に別段の制限なき点および新法遡及の精神よりして、新法施行前であれば旧法施行中はもとより、旧法施行前に生じた事項にも適用せられるのであつて、この点不遡及の原則を採用した旧法とは全く異るのである。そして、この新法遡及の原則に牴触するかぎりにおいて、民法施行法第一条は効力を失つたものと見なければならない。したがつて、旧民法施行前の事項については、旧法は適用せられなかつたが、昭和二十三年一月一日以降は、新法が適用せられることとなり、こゝに民法施行前の事項にも民法が適用せられることゝなつたのである。しかるに、新法附則第二五条第一項によれば、原則として応急措置法施行以前(勿論旧民法施行以前も含まれる)の相続については、旧民法が適用せられることゝなるのである。すなわち、被告等はこの理由により小林法谷の相続については、新法が施行された結果、新に旧民法が適用されることとなつたのである。ところで、小林法谷の相続に旧民法を適用した場合を考えると、小林法谷には法定または指定の相続人がなかつたので、旧民法九八二条により家督相続人の選定を要する場合に該当するのであるが、新法附則第二五条二項の規定がある結果、小林法谷の相続に関しては、さらにまた新民法が適用されるのである。
原告は、新民法は相続編について不遡及主義をとると主張する。被告も新法がそのような態度をとつていることは認める。しかし、それは、民法を適用すべき場合を前提としてその場合につき新法を適用すべきか旧法を適用すべきかについての不遡及主義であつて、その前提となる民法の適用時期についての不遡及主義ではない。民法を何時の時期から適用すべきかは、新法附則第四条が決するところであり、それによれば、民法全体は民法施行以前に遡及して適用せられ、その場合を前提として、それにつき新相続法を適用するか旧相続法を適用するかにつき民法は不遡及主義をとるというのに過ぎないのである。そして、新民法附則第二五条二項の場合に限つて例外的に旧法時代に遡及して新法相続編の規定が適用されるのであるが、本件相続の場合はまさにこの場合にあたるのであつて、とくに例外的に新相続法が適用されるのであると主張する。要約すると、新法附則第四条により、新民法は旧法施行前を含めて一切の新法施行以前の事実に適用されることゝなり、ただ附則第二五条第一項がある結果、旧民法施行以前をも含めて応急措置法施行以前に開始した相続については、旧相続法が適用されることゝなるが、本件の場合はさらに同条第二項に該当して、再転して新相続法が適用されることゝなるというのである。
原告は旧民法施行以前の事実に新民法を適用することの不当性について述べるが、附則第四条但書により旧民法によつて生じた効力を妨げないのであるから、不当な結果を生ずることは絶対にありえない。
そこで小林法谷所有の本件山林を渡辺清作が相続した関係を見るに、
図<省略>
小林法谷こと渡辺谷男には、父母と兄が二人があつたが、いずれも法谷死亡前に死亡した。そして長男初代仙太郎には、長男二代仙太郎が法谷死亡当時生存しており、法谷および平六には相続人がなかつたので、結局新民法八八九条一項第二および旧民法第九七四条第一項、同第九七〇条一項二号の規定により、代襲相続により、二代仙太郎が単独相続したのである。これについて、原告は渡辺トクと二代仙太郎が共同相続すると主張するが、渡辺トクと二代仙太郎が初代仙太郎を代襲相続する関係については、新法附則第二五条第一項により、旧民法第九七四条一項および第九七〇条一項二号が適用せられて、二代仙太郎が単独相続人となるのである。新法附則第二五条第二項により新法が適用されるのは、小林法谷の直接の相続人が誰であるかについてであつて、新法第八八九条一項二号によつて決まつた相続人が死亡していて、その者のうちに直系卑属がある場合には、その者が代襲相続できるかどうか、もしできるとすれば、その直系卑属のうちで誰が代襲相続人となるかは、附則第二五条一項により、旧法第九七四条一項、九七〇条一項二号によつて決すべきであり、これによれば長男である二代仙太郎が相続人となるのである。そして、被告渡辺清作は、大正三年二月二日家督相続により二代仙太郎を相続したのであるから、本件山林を大正三年一月二十五日家督相続したことが明らかである。このようにして、被告渡辺は本件山林を正当に相続した後、これを正当に被告加茂に譲渡し、被告萩原、小野沢は被告加茂から正当に地上権の設定を受けたものである。
(三) 原告は、被告渡辺と同加茂との間の譲渡行為が公序良俗に反し無効だと主張するが、被告渡辺はかつて被告加茂に対し直接その譲渡行為が無効だと主張したことがないし、今日実相を詳細に承知の上で、なおその譲渡行為の有効なことを承認しており、本件譲渡はまつたく被告渡辺の真意に出るものであり、公序良俗に反するものではない。渡辺の意思にしたがつて本件譲渡行為の効力を認めても、公序良俗を害したりすることは絶対にありえない。原告の論法をもつてすれば高価なものを贈与することは常に公序良俗に反することゝなり、はなはだ不当な結果を生ずる。
(四) 原告は本件山林を明治二六年四月十一日以来、所有の意思で平穏、公然、善意、無過失に占有を続けたと主張するが、小林法谷死亡当時原告は本件山林が小林法谷の所有であり、したがつて、もし相続人が現れゝばこれに返還するつもりで、もつぱら小林法谷の相続人のためにする意思で本件山林を管理したものであり、本来所有の意思がなかつたのであるから、本件山林を時効により取得するに由ないのである。まして、花沢義仙は大正八年から昭和二十二年まで原告の住職であつた当時、本件山林を小林法谷相続人のために占有管理してきたこと明らかであり、原告は自己のためにする意思で占有してきたのではない。このことは、永戸村組合長大和田嘉男作成の納税証明書により本件山林につき、原告が小林法谷のため代納してきたことからも明らかである。かりに、花沢が住職に就任前時効により取得したとしても、花沢が住職に就任後法谷相続人のために管理してきたことは、時効の利益の拠棄の意思表示とみるべきであつて、原告は本件山林を現時時効により取得するに由ないものである。かりに、原告が本件山林を時効により取得したとしても原告は本件山林につき時効による所有権取得の登記をしておらず、その間に被告加茂は被告渡辺より所有権を取得して登記をし、さらに被告萩原、小野沢において地上権の設定登記をしているのであるから、原告は被告加茂、萩原、小野沢に対し時効取得を対抗できない。
被告加茂、萩原、小野沢等は本件山林に合計約八百万円を投じており、もし原告の時効による所有権が認められゝば被告等は右金額だけの損害を蒙りはなはだしく取引の動的安全を害することゝなるので、被告等を保護することが法の正義に合するものであると陳述し、なお、被告萩原、小野沢訴訟代理人は原告は被告が買受けた山林はほとんど値打がないというが、それは、本件六十八番山林の境界を原告主張とおりに解する結果であつて、右境界を被告主張とおりに解すれば被告加茂の買受けた部分は八百万円以上の価値があることゝなる。なお原告は、被告萩原、小野沢は平市田町の土地を取得したから被害がないと主張するが右土地には第三者所有の建物があり、しかも右建物所有者は正当に賃借権がありと主張するので、もし、然りとすれば坪一万円の値打もないと陳述し、なお、被告加茂訴訟代理人は、被告渡辺清作が小林法谷の相続人たることを自白したのを原告訴訟代理人が撤回したことに異議があると述べた。<立証省略>
理由
(一) 歴史上の事実として、わが国大宝令以来幾多の法規は、法要礼拝等寺院の目的を達するに必要な寺の設備を中心とする僧侶、および檀徒または信徒の結合した組織体を権利主体たる価値あるものと認め、いわゆる寺院なる権利主体を認めてきた。すなわち、寺院は本堂等の財産を基礎とするとともに、僧侶、檀徒、信徒をその組成分子とするのである。たゞ寺院の沿革によつてこの両者中信仰のために献じられた財産をもつて中心とすることが妥当と思われる寺院もあり、檀信徒を中心とするを妥当とする寺院もある。本山または旧幕時代にまた幕府または大名等の有力な外護を得た寺院は前者に属するもの多く、他は概ね後者にあたるとみるべきである。それであるから、寺院は民法施行法第十九条第一項により当然法人である。
しかしながら、寺院の観念の把握については今日のように明確でなく、あいまいであつたことは、寺院なる語の表す意味について種々の動揺があつたことにより明らかである。すなわち、本堂庫裡等、仏像経典を安置し僧尼の起居する建造物を寺院と称したことは徳川時代の諸法度および仰渡等(例えば貞享四年十月諸寺院条目に「一、旦那之者出火為本人罪科未糺明内ハ旦那寺ヘ引取置御役所之可預裁断事」とあり)多く見え、明治時代に入りても、明治五年六月九日教部省第三号達に「今般教導職設置候ニ付テハ兼テ被仰出候三ケ条ノ大旨ヲ体認シ各管内社寺ニ於テ追々説教可執行候条其管内老幼男女稼業ノ余暇ヲ以テ信仰ノ社寺ニ詣リ聴聞可致」とあり、その他の諸法令中に屡々見受けられるところである。
次に権利主体としての人格者を表わすに寺院なる語を使用せる例も古来多く見受けられるところである。もちろん、寺院の組織的構成につき、必ずしも今日観念するような明確な存在としてゞはなくとも、具体的な組成分子と離れて抽象的な権利主体としての寺院を認めることができた。
すなわち、徳川法度時代に入りても、慶長十三年八月八日比叡山法度、同年十月四日成菩提院法度、同十七年九月二十七日興福寺法度、同年十月四日長谷寺法度、寛文五年七月十一日寺院法度等その他の法令の諸所に見られるところである。明治時代においては更にこの例が著しくなつた。
第三には、寺院という語が第一の意味の寺院に居住する僧侶を表わし、または、第二の意味の法人格者としての寺院の代表者たる住職等の僧侶を表示するに使用されることがあつた。この意味の寺院名で表示される僧侶は右寺院の居住者である場合においても、その行為が法人たる寺院に影響を有すること、すなわち、寺院を多少とも代表する関係に在ることを必要とし、また、法人たる寺院の代表者たる地位にある僧侶はその伽藍中に居住しておることを原則として必要とし、単なる伽藍の居住僧は同宿などゝ称し、寺院名でこれを呼ぶことがないのを普通とする。したがつて、右寺院名で表示される僧は純然たる個人たるその僧侶自身とはその資格において異るものであること明らかである。此の用例は徳川時代以前においては、ほとんど、これを求めがたいが旧幕時代には法語として相当用いられた(例えば、御定書百ケ条中一、寺社領之百姓地頭非分之儀を申出候類は地頭寺院或は神主等呼出シ云々。一、変死者を内証にて葬候寺院、五十日逼塞。)以上の用語例からすると、寺院の法人としての構成の観念明らかでなかつたことを認められるけれども、寺院が住職と人格的に別異に観念したことは、いずれの用語例からみても明らかである。
本件において証人態谷喜勝は、寺の財産につき寺のものは住職のもの住職のものは寺のものと考えると証言し、原告本人の供述によると「原告寺の住職として、個人の収入と宝光寺の収入とを区別することについては、宝光寺の収入としては葬式のときなどの収入もあるが住職個人の収入としては教員としての収入があるだけなので寺と住職個人の収入の区別ははつきりしておる。原告寺住職としての光英の子供の学費や生活費等については、寺の収入から出すものと個人収入から出すものと区別せず、事実上私生活費も寺の行事としての費用もごつちやに使つており、又同人が住職に就任するについて報酬というものは、はつきり決めておらず、寺の収入で子供を学校へあげたりしてもよいことになつておる」ことを認められる。
これによると寺院と住職とを区別しても、個人の生活関係は寺と一致し、寺のものは住職個人のもの住職個人のものは寺のものとの観念が存したようである。
そこで寺院が具備すべき財産についての現行法の根拠を探ねると、明治十二年内務省達乙第三一号によれば、明細帳には、本尊、堂宇間数、境内坪数並地種、境内仏堂幾宇本尊建物、境内庵室幾宇本尊建物、境外所有地等を記載すべきものとせられ、これ等の財産は通常寺院の所有すべきものというべきであろうが、明治八年内務省達乙第一一三号廃合寺院跡地並建物処分規則によると、先住職現住職、その他民有の確認ある財産はその者に下渡し、然らざる財産は官没する等の処置をとつたことにより考えると、いわゆる寺院の堂宇建物、境内地、朱印地、除地田畑山林等の財産の所有権が必ずしも、寺院の所有に属しおらず、住職その他民有に属することあるを認めらるゝので、各具体的場合につきその財産が寺院所有であるか住職個人所有であるかを決すべきもので住職所有のものは寺院所有寺院所有のものは住職所有というような一般観念存するものでないことが明らかであつて、これが一般的法律観念と認むべきものである。しかし、寺院なる語義の中には法人格を表わす場合の外住職等僧侶を示す場合があること前述の如く、僧侶対寺院の関係は密接で僧侶の寺における恰も俗人の家におけると一般なるがように思推せられ、弟子が師跡を継いで寺院住職たるは相続の観念をもつて表現された。かゝる時代において僧侶の専檀を防止することを唯一の目的とし寺産保護のためこれを監督する立場から寺院保護の規定をすることは必要で、このため明治六年太政官布告および明治九年教部省達の発布を見たのであつて、民法施行法二十八条の規定の意味も茲に存するものと解せられるのであるけれども右述べたように寺院法人の観念およびその財産帰属の関係は既に確定せられたもので右民法施行法の規定の存在理由はたゞ僧侶の専檀を監督する意味を有するに過ぎないものである。
明治初年に寺有地官没が行われたため、これが回避の目的で寺持ち不動産を住職名義としたことが少くなかつたと原告は主張するのであるが、さようなことがあつたとしても証人藁谷信雄の証言、原告代表役員光英大麟の供述、成立に争のない乙第七号証によると、本件原告寺所有の不動産はそのまゝ寺名義としてあつたものがあること明らかであり、かつ前認定のように、住職個人の所有のものもありうるのであるから、本件山林がそのように仮装にしたものに該るか如何かは別途にこれを識別しなければならないのである。
よつて案ずるに成立に争ない甲第二十二号証(除籍簿謄本)によると、小林法谷は明治二十六年四月十日死亡した旨記載あり、なお、火災によつて除籍簿焼失し右小林の死亡年月日不明なるも、曹洞宗務所長長縁寺住職秋実信の証明により除籍なることを認承する旨記載あるので、これによると、必ずしも、成立に争ない甲第三十六乃至第三十八号証により明らかなように、明治二十六年四月十一日小林法谷が書入により本件山林の所有者となり、成立に争ない甲第二十六乃至第二十八号証により明らかなように、同日同人名義で所有権取得の保存登記手続をしたのは、同人死亡後であるとすることはできない。むしろ、証人阿部元司の証言によつても明らかなように同人は右四月十一日にはなお生存しておつて自ら右所有権取得行為および保存登記手続に参与したもので、本件山林三筆は小林法谷個人の所有と認むべきものであり、なお証人花沢義仙の証言により成立を認める甲第十号同第十一号、原告代表役員光英大麟の供述により成立を認める同第二十九号同第三十号の各証および証人花沢義仙、阿部千代治、草野勇作、渡辺定の各証言を綜合すると、本件三筆の山林は小林法谷のものであるが、同人の墓地は原告寺の墓地の境内にあり同人の相続人が不明なためその供養の意味からも同人名義の土地を原告寺で管理しやるべきものと考えてその管理をなしきたり寺の財産の調査書類(甲第十号、第十一号、第二十九号、第三十号)に小林名義の土地を寺所有と記載したのは同人に相続人がなく一応寺のものとしてこれを記載したものであることを認めることができる。また、証人草野勇作の証言によると、小林法谷名義の耕地は同人名義の買収令書によつて買収されたのであつてたゞその令書は同人の相続人不分明であつたから右耕地を管理しておる原告寺に交付されたに過ぎなかつたことを認められる。
甲第七号証、同第九号証の一乃至七、同第三十一号証の一、二、同第三十二号証は右認定の趣旨を覆えすに足らないし、甲第十二号証は措信しない。証人藁谷喜知平、根本国光、熊谷喜勝、藁谷信雄、大木嘉祥および原告代表役員光英大麟の叙上認定に反する各証言および供述は措信しないがまたは右認定を覆えすに足らない。(本件山林の所有権は内部関係においては、原告寺に属し、外部関係においては、小林法谷に属すとの原告主張は、原告のすべての主張および陳述の推移に徴し錯誤に出でたものと認むべく、また、叙上認定によつて、真実に合致しないことを認められるから、右原告の主張の訂正は許さるべきものである)。
(二) 成立に争のない甲第十三号証によると、小林法谷の養子秀栄は明治二十一年九月十九日離縁し、同じく養子テツも同二十二年三月十四日他に入籍し、また、妻シンは、成立に争のない甲第二十一号証によると、明治二年十一月十日死亡したこと明であるから、成立に争のない甲第二十二号証により明治二十六年四月十日頃死亡したこと明らかなる右法谷は単身戸主であつたものというべきである。そして右法谷死亡当時施行されてあつた明治十七年太政官布告第二〇号によると、単身戸主死亡から六ケ月以内に跡相続人の届出がなければその家は絶家となりこれが家督相続は許されないし、尚当時の法令によると、絶家の財産は五ケ年間親族または戸長において保管し、右年限後における当該財産の帰属は、親族の協議に任せられ、その帰属が決定しないものは官没されるものである。したがつて絶家の財産は前記親族の協議によりその権利を取得した者、もしくは、時効によりその権利を取得した者または、これ等の者の承継人であることを証明する者があればその者の所有と認むべく、然らざるときは、右財産は官没さるべきものである。しかし本件山林につき右官没あつた形跡がないので、民法施行法第九十二条によつて相続人曠欠に関する規定の適用があることゝなろう。そして、昭和二十二年法律第二二二号附則第二十五条によると家督相続人の選定を要する場合として新法を適用するのは旧法すなわち右法律による改正前の従前の民法の適用を受ける当時の相続に関し、それ以前の相続にまで新法は適用されるものではない。前示の通り、小林法谷の死亡による相続の開始したのは明治二十六年四月十日頃で民法施行(明治三十一年七月十六日)以前であるから、右相続については右附則第二十五条の適用がない。被告は右小林法谷の相続には右附則第四条により新法が遡及して適用されると主張するけれども、右第四条本文は「新法は別段の規定のある場合を除いては、新法施行前に生じた事項にもこれを適用する」と規定し、新法の遡及効は別段の規定のない場合に限つておる。しかるに、附則第二十五条第一項によると「応急措置法施行前に開始した相続に関しては第二項の場合を除いて、なお、旧法を適用する」とし、同条第二項には「応急措置法施行前に家督相続が開始し、新法施行後に、旧法によれば家督相続人を選定しなければならない場合には、その相続に関しては、新法を適用する」とあつて第一項に「なお旧法を」、第二項に「旧法によれば家督相続人を云々」の各文字を使用し、また、民法施行法第一条によると民法施行前に生じたる事項に付ては別段の定ある場合を除く外民法の規定の不遡及原則をとつておるのであるから、右二十五条第二項により家督相続人の選定を要する場合として新法の適用を受けるのは、旧法の適用を受ける当時の相続に関するものであること明らかであり、右二十五条はこの場合にのみ新法の遡及効を認め、その余の旧法当時の相続に関する事項には遡及効を認めないとしたもので、右第二十五条の規定する場合は右第四条本文のいわゆる別段の規定のある場合に該当する。従つて右第二十五条に関する事項の範囲においては第四条本文の適用はないものである。
しかるに本件の場合、右附則第二十五条第一項および第二項の何れにも該当しないので結局右附則第四条の内に包含されこれが適用があるのであろうけれども、同条但書に規定した立法の趣旨に則り、すでに生じた効力を妨げないものと解されるので、前示大政官布告その他の当時の法令により生じた効力はそのまゝこれを認めなければならない。したがつて、渡辺清作は小林法谷の相続人としてその権利を承継することはできないもので、甲第二十六号乃至第二十八号証によると本件山林を渡辺仙太郎が相続により取得したのを被告清作が家督相続した趣旨の記載あるけれども、もとより措信することはできない被告渡辺清作が原告先代住職小林法谷の相続人であることは認めるとの原告訴訟代理人の陳述は錯誤であるとしてこれを取消したが、原告訴訟代理人提出の小林法谷の相続人に関する各立証および同代理人の主張陳述によると右取消された陳述は錯誤に出たことを認めるのに充分で、なお右陳述は真実に合致しないこと叙上認定により明らかであるから右陳述の取消は許さるべきである。
(三) 寺院そのものゝ所有関係と住職個人の所有関係とは全然別異に観念すべきもので寺院の所有は住職の所有、住職の所有は寺院の所有というべきものでないことは前示説明のとおりであつて、これに準拠してその法律上の効力を定めねばならないのであるが、当事者が実際上如何ように寺院の所有関係について観念し、如何様に取扱つてきたかについて考えてみることにする。
証人藁谷信雄の証言により成立を認める甲第一号証、成立に争ない同第八号証の一乃至三、同第九号証の八、証人熊谷喜勝、藁谷喜知平、根本国光、藁谷信雄(第一、二回)、大木嘉祥(以上いずれも原告寺の檀家総代または檀家)の各証言、および原告代表役員光英大麟の供述を綜合すると、本件山林三筆について、小林法谷死亡の前後を通じ原告寺の所有としてこれを管理、使用、収益し、その公租公課を負担し、大正元年六月字迎田六十八番山林については、原告寺は永戸村上永井青年会にこれを賃貸し、右青年会は大正二年中御即位記念造林をなし、右立木処分代金の三分は原告寺、六分は右青年会で取得することにし、諸税金は原告寺で負担し、造林の手入下刈等一切は右青年会がすることにし、その後も右青年会が植林し、字寺下百二十二番および迎田七十一番各山林からは原告寺の住職使用の薪材に充てるため、檀下の者が労力を奉仕して毎年薪を取り寺に納め、なお、原告寺では右七十一番で昭和十年頃地元の者に炭を焼かせたことがあることを認められる。右客観的状態によると明らかに原告寺は平穏公然に本件山林について所有者としての権能を行使しておつたことを認められる。
次に右証拠資料により、原告寺当局者が主観的にどのような意思によつて右行動をとつておつたかについて考えると、この点について三種の観念を区別することができる。すなわち、本件山林について(一)はじめから、小林法谷には所有者名義のみ存し、実体的所有権は寺に存しておつたとの観念(二)小林法谷死亡の前後を通じ、小林の所有であると同時に原告寺の所有である(たゞし小林の関係はほとんど問題にせず)との観念(三)小林死亡前は右(二)の観念であつたが同人死亡後はその相続人がないため小林の関係消滅し、完全に原告寺の所有となつたという観念に区別することができる。右(一)の観念と(二)の小林死亡後における観念においては、原告寺に完全に実体的所有権があるということは一致しておるところで、たゞ(二)の観念においては小林の権利をその死亡後も薄弱ながら認めておるようである。したがつて右各観念は前示認定の法律的観念とは異るところで、右実際上の観念に基いて本件山林を占有した関係においては、民法一六二条による取得時効上の占有関係としては、概して過失に出るもの((二)の観念によると、悪意の成分がある)と認めねばならぬ。つぎに前示甲第十号、同第十一号、同第二十九号、同第三十号証、証人花沢義仙、阿部千代治、草野勇作、渡辺定の各証言による認定の場合、本件山林は小林法谷のものであるが、これを原告寺で、管理してやるべきものとの考えの本に、これを管理したのであるか、やはり寺の所有として管理しておつたものであつて右による民法第一六二条第一項による取得時効上の右占有関係は悪意に基くことになる。よつて、原告寺は事実上所有者として平穏公然に本件山林を占有してきたが悪意又は過失あるものとし、その初日を小林法谷死亡の明治二十六年四月十日頃とし二十年を経過した大正二年四月十一日頃原告寺は本件山林の所有権を時効により取得したものというべきである。つぎに証人阿部千代治の証言により成立を認める甲第三号証、証人藁谷信雄の証言により成立を認める同第四号乃至第六号証、証人渡辺定の証言により成立を認める乙、第二、三号証、甲第九号証の九、成立に争のない同第二十六号乃至第二十八号証、被告小野沢富太郎の供述により成立を認める乙第四、第五号証、同第六号証の一乃至五、証人藁谷信雄(第一回)、大木嘉祥、熊谷喜勝、阿部千代治、渡辺定の各証言、原告代表役員光英大麟、被告萩原平八、同小野沢富太郎、同加茂文男の各供述を綜合すると、訴外阿部千代治は昭和二十八年十二月頃新発田市の被告渡辺清作方を訪ね本件三筆の山林その他の小林法谷所有名義の財産を原告の檀下総代に譲渡方交渉してその承諾を得たが、翌昭和二十九年一月頃被告加茂文男は、右清作方を訪れ自己に本件山林を売却せられたき旨交渉し売却名義で所有権の移転を得、その後同年四月頃訴外藁谷信雄、大木嘉祥、熊谷喜勝等が右清作方を訪れ同人等の申入れにより、清作は右加茂に売却したことを取消す旨言明したけれども加茂に対してはその意思表示をなすに至らなかつたこと、および、加茂は昭和二十八年十一月本件山林中字迎田六十八番の立木を被告萩原平八、小野沢富太郎に売渡し、右土地につき昭和二十九年二月頃同人等のため期間五年間の地上権を設定したことを認めることができ、なお、被告加茂は昭和二十九年二月二十七日右売買による所有権移転登記手続を、被告萩原、小野沢は昭和二十九年三月一日右地上権設定登記手続を各経由したことは当事者間に争がない。
しかるに、前示認定の通り被告渡辺清作は本件山林の所有権を取得したものでないのであるから右被告加茂と被告渡辺との間の所有権移転行為はその効力がないものといわなければならないし、また右加茂が被告萩原、同小野沢に対しなした地上権設定の行為もその効力がないものといわなければならない。したがつて、たとえ、右所有権移転および地上権設定について登記手続を経由しても効力がなく、各被告は原告の本件山林所有権の時効取得につき、第三者としてその登記欠缺を主張するについて正当の利益を有しないものといわなければならない。
被告訴訟代理人は、被告加茂、萩原、小野沢は本件山林に多額の金員を投じおるもので、もし原告の本件山林の時効取得が認められると、右被告はそれだけの損害を蒙ることゝなり、はなはだしく取引の動的安全を害するので右被告等を保護すべきであると主張するけれども、原告が取得時効により本件土地の所有権を取得するのは、時効制度として、時間の経過による取引上の秩序維持の見地から出るもので、被告加茂等が出金し損害を蒙るに至つたのは同人等が被告渡辺清作を誤つて小林法谷の相続人と信じ、または時効関係等について慎重な調査をすることを怠つたためであつて、右被告の過失については同人がその責任を負うべきものであつて右過失による取引を保護し時効制度による一般的秩序を犠牲にすることはできない。よつてこの点の被告主張は採用しない。
しからば爾余の点に審究するまでもなく原告の請求を認容すべきものとし、訴訟費用につき民事訴訟法第八十九条、第九十三条を適用し主文の通り判決する。
(裁判官 大竹敬喜)